2014年4月14日月曜日

現代「キャビネ ドゥ キュリオジテ」論

最近何度か「キャビネ ドゥ キュリオジテ(Cabinet de curiosités)」風な展示について触れた2/163/28。通常の歴史順あるいは地域別の展示という、今までの説明的・教育的方式、それこそが美術館の使命だったのだが、それを古くさいと捨て去る形で「(再)登場」してきた。そこでは時代、地域が離れた作品、現代アート、民族芸術、マージナルアート、いわゆるアートだけでなく、日常品や鉱物なども一緒に、テーマあるいは造形性の関連から並べられることになった。つまり「ごちゃまぜ」展示だが、それがしばしば「観る者がアートを作る」という聞こえのよい現代アートのご神託とともに(再)登場してきた。

かくして「寝かせた便器」にも、強いて言えば「がらくた」の中からも私たちの鋭い視線は芸術性を発見することになった。レディ・メードやインスタレーションを皮肉っているわけではない。それ以上にこの神託は飛躍し「ごっちゃまぜ」の極致である我々の世界自体が素晴らしい芸術の館となり、かくして「アートは人生を興味深くする何か」とか「万人が芸術家」という新たなご神託が生まれた(というか現代アーティストの名言が再起用された)。

勿論私は何でも「観ること」が大好きな人間だから、「ごっちゃまぜ」は結構楽しいし、一介の芸術家面をし、普通の人より楽しく人生が暮らせているのはご神託のお陰かもしれない。

しかし「観る者がアートを作る」(=モノの芸術性は観る人により発見される)という「観手」の心をくすぐる言葉は「真理」でもあり、単なる芸術人の「うぬぼれ」でもある。そもそも「芸術」というのは「我々人間界の事柄」、自然現象により芸術を遥かに越えるような光景が作られたとしても、そこに芸術性を見いだすとしたら。それは私たちの心の彩にすぎない。それは全くの異文化の作品に関してでも同様である。



美術館ができる前は、王様、貴族、富豪が好きなものを集めた。これが多くは「ごっちゃまぜ」の キャビネ ドゥ キュリオジテ であった。これが私が先に「(再)登場」と記した理由だ。

城や豪邸に飾られたそれらの品々を客が見せてもらった訳で、彼らが文化的オピニオンリーダーとして君臨した結果、観手(受け手)はその「教養」「視線」そして「心の彩」を習得し、それに従い、あるいは反発しながら、新たな芸術家が作品を作り、それを新たなオピニオンリーダーが評価し、それを連綿とを繰り返したのだ。現代でもそれは同じ。そしてこの循環は作家がいなければ止まる。だから誰が「作る」かは明らか。加えて言えば、ご神託はわざと誤解を招かすが、「観る者」は単なる「観客」ではない。

しかし昔のキャビネ ドゥ キュリオジテに比べてより多元性を増やした今日の「ごっちゃまぜ」展での主役は作品ではなく、作品をオーケストラする企画キューレーター。「普遍的な美」なるものが存在するとは思えないから、結局のところはキューレーターの好みの反映、心の彩に過ぎない。

こういうのが私の旅行写真で、、、
確かに20世紀後半の美術史は一本化しすぎた。「ごっちゃまぜ」展示はそれに揺さぶりをかけるという意味はあるが、「継承」という視点からは甚だ疑問に感じる。私が「ごっちゃまぜ」を楽しめるのは普通の美術館や民族博物館で一つの視線を養われた結果で、これはキューレーターにとってもそうであろう。だから彼らも「古典的展示」の必要性を完全に否定することは絶対にできないと思う。そうでなければ展覧会は単語をたたいて出てくるグーグルの画像検索ほどのものにすぎなくなる。まさか彼らがそんな現代性を狙っているとは思えない。



砂丘に生えた草が風に揺られて砂に描いた円も「芸術」と見なす私の結論はいたって凡庸:「ごっちゃまぜ」と「古典的」展示は補完的、後者あっての前者なので私は「ご神託」のような大それた現代的解釈をしてほしくないのだ。

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